京急大師線川崎市電(1964年) 

 京急大師線は京浜工場地帯の輸送を担う産業路線でもありました。京浜川崎から川崎大師を経て、小島新田、塩浜まで走っていました。塩浜からは川崎市電が接続し、桜本、池上新田を経て、川崎駅前まで来ていました。両線で環状になっていました。


川崎市電(池上新田ー塩浜)廃止公告

 

 しかし、1964年(昭和39年)に国鉄塩浜操車場建設の為、川崎市電は3月25日から塩浜ー池上新田間が廃止になりました。京急大師線も同じタイミングで、塩浜と現在の小島新田駅の間が 休止になりました。

 この区間の最後を撮ろうと友人と出かけました。

 


デハ230(デハ294)+クハ140+デハ230 産業道路ー小島新田 1064年3月

 大師線はデハ230が主役でした。クハ140を挟んだ3両編成も未だ、活躍していました。


デハ271(先頭)     小島新田(旧駅)     1064年3月

 1964年(昭和39年)に国鉄塩浜操車場建設の為、小島新田〜塩浜間が廃止され、小島新田駅は約300m産業道路寄りに移設されました。上の写真は旧小島新田駅のホームから川崎方面に行くデハ230を見送ったところです。下り線のホームのはずれから1067mmの線路が右に分岐しています。日本冶金に行く貨物線です。国鉄浜川崎駅より、川崎市電、塩浜を経由して、日本冶金までの貨物列車が大師線終電後に運転されたとのことです。この3線区間は川崎大師まで あり、味の素工場までの貨物列車も運転されたようです。

この貨物列車にについて、武藤謙二さまより国鉄の昭和24年1月1日と昭和27年4月9日発行の部報を頂きました。
その抜粋です。
1.川崎市電及び京急大師線終電後に以下の時刻で運転。(昭和24年の部報掲載)
                        
この運転時刻は武藤謙二さまより提供頂いた昭和29年4月15日の浜川崎支区乗務員運行表に依ると30分程遅くなっています。おそらく、川崎市電もしくは京急大師線の終電が遅くなった為と想定されます。
 また、この運行の後、もう1往復運転されることもあったようです。
        浜川崎2:40−(入17)−3:27味の素3:50−(入18)−4:38浜川崎


2.運転方式
  車両入れ替えの方式とし、操車掛が添乗し、一旦停止位置の確認、ポイントの確認を行う。往復とも牽引運転をして、貫通制動器を使用する。

3.牽引機関車と牽引可能貨車 
  1700形機関車、現車15両以内、換算25両以内  5500形機関車 現車15両以内 換算20両以内 現車は2軸車に限る (昭和24年)
  C11形機関車、換算60両以内 C12形機関車 換算45両以内
  C11+C12(又は2120)重連 換算80両以内 C12+C12(又は2120)重連 換算75両以内 (昭和27年)
  今の貨物列車で例えれば自重+荷重40tのコンテナ車現車20両程度ということになりますね。平坦な路線ですのでC11+C12重連で牽けたのでしょう? 

4.運転速度    15km/h以下 川崎市電の観音川橋梁、塩留川橋梁では10km/hの速度制限

5.小島新田駅では入11レが5分、入12レが30分の停車時間を設定している。                                                 これは入11レが日本冶金向けの貨車を解放。これを日本冶金の機関車がピックアップに来る。入12レが到着後、日本冶金からの貨車が自社の機関車で推進運転で、味の素からの貨車の後尾に連結。と推定されます。(はーさんの推定)
 昭和27年には戦後復興も進み、生産が急増したようで、機関車の重連も行い、牽引貨車も大幅に増やしています。真夜中の京急大師線を長大貨物列車が走っていたとは、今、考えると信じられないですね!(はーさんコメント)
小島新田駅より分岐していた日本冶金工業川崎製造所へは同社大江山製造所からニッケルルッペを加悦鉄道を経て送られていました。川崎製造所の入換機関車が加悦SL広場で動態保存されていました。 1963年日立製
加悦鉄道経由の日本冶金貨物輸送は加悦鉄廃止直前1985年3月14日の貨物廃止まで続いていました。
末期の加悦鉄道の収入の屋台骨を支えていたのですが、国鉄宮津線が貨物を廃止することで、貨物輸送が出来なくなり、収入源を絶たれ加悦鉄道も鉄道営業を止めざるを得なくなりました。
 塩浜貨物駅開業により日本冶金専用線は神奈川臨海鉄道浮島町線から分岐するように変わって存続しました(写真とともに西宮後さまより頂きました。)。


加悦SL広場に保存されていた日本冶金川崎製造所の機関車

                   デハ261(先頭)  小島新田ー塩浜間 1964年3月            デハ272(先頭)  小島新田ー塩浜間 1964年3月

 工場地帯を象徴するような特高送電を行うガントリータワーの下を行く、大師線デハ230です。3両編成の川崎方2両は車体更新された230形で、塩浜方1両は更新前の230 形です。1962年から230系は車体更新が進み、この当時は混在していたようです。この過程でクハ140は廃車になったようです。

塩浜駅に進入するデハ267 塩浜 1964年3月

 塩浜駅に進入する大師線下り電車は上り線側のホームに入ります。1435mmゲージの線路はここで、途切れ、1067mmゲージの国鉄貨物用の線路だけ、直進し、川崎市電の1435mmの線路と3線になります。関東の市電としては、珍しく、1435mmゲージを採用したのは、京急大師線を買収して、環状路線を完成する意図を持っていましたので、容易に既設の大師線に乗り入れられるゲージにしたのかも知れません。お大師さまの参詣客で繁盛しており、発祥路線でもある大師線を京急は絶対手放すつもりは無かったようで、線路も握手はしなかったのでしょう。

                     塩浜駅で並んだ京急デハ267と川崎市電203 1064年3月  塩浜駅で並んだ京急デハ276と川崎市電607 1064年3月

とはいうものの、塩浜駅では仲良く並んでいました。この2つの画像から230の車体更新前と更新後の顔つきを見比べることが出来ます。車体幅あったアンチクライマーが真ん中を切られたりして、かなり、容貌が変りましたが、腰板が低く、大きな窓も変らないので、軽快さは失われていないように思われます。

塩浜を出発した川崎市電701 1962年12月

 

工場地帯の専用線を走る川崎市電203 塩浜ー塩溜橋 1964年3月

 

運河に沿って走る川崎市電602 塩浜ー塩溜橋 1964年3月

 塩浜を発車した川崎市電は工場地帯の専用線を走ります。やがて、舟が係留されている運河に沿い走ります。そして、産業道路のかたわらの専用線を日本鋼管前までゆき、そこから、通称市電通りの真ん中 の併用軌道に入ります。

通称市電通りの川崎市電202 成就院前 1964年3月

 

 成就院前には渡田車庫がありました。上の左に入る線路が車庫線です。

 

京急本線を走る230系の横を川崎駅前停留所に入る川崎市電502 1962年12月

 

川崎駅前停留所の川崎市電606 1962年12月

 

 市電通りから京急本線に沿って右折し、川崎駅前停留所に達しました。

 1944年(昭和19年)に戦時輸送の為、開通した川崎市電は東京都電などからの譲受車で運行を始めたようですが、訪れた時は全て、自局発注の車でした。500形は都電6000形のデッドコピーでした。600形は前面、東武日光軌道線100形とそっくりな2枚窓で、車幅が500形より20センチ広く、堂々としてはいましたが、イカツイ電車でした。700形もほぼ同じ電車でした。200形は都電から譲り受けた木造車の更新名目で製作した前面3枚窓の全金属製の電車でした。

 沿線の工場にビジネスで頻繁に通いましたが、川崎市電を利用したことは無く、なんとなく、影の薄い電車ではありました。

 1969年(昭和44年)3月31日に残った川崎駅前ー池上新田も廃止になってしまいました。

 

謝辞

 川崎市電、京急大師線の3線区間を走っていた貨物列車にについて、武藤謙二さまより貴重な資料、国鉄の昭和24年1月1日と昭和27年4月9日発行の部報、を頂き、その抜粋を載せさせて頂きました。深謝致します。

謝辞
 日本冶金の専用線の輸送につき西宮後様より、写真とご教示頂きましたので、掲載させて頂きました。深謝致します

a参考文献

  鉄道ピクトリアル1970年10月号臨時増刊、通巻243号 京浜急行電鉄特集 私鉄車両めぐり「京浜急行電鉄」

  RM LIBRARY「川崎a市電の25年」 関田克考、宮田道一著

  友人KKさんに撮影場所の特定等で大変お世話になりました。謝意を表します。

 

京浜急行230形については

川崎市電を少し詳しくまとめてあります。

もご覧ください。

(2006-7-8) 
(2020-5-31)味の素貨物の記述追加
(2020-6−5)味の素貨物記述追加


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